格闘家 / 指導者 インタビュー
レスリング【1984年ロス&1988年ソウル五輪 銀メダリスト】太田章(おおた あきら)さん
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今回のゲスト レスリング【ロス&ソウル五輪 銀メダリスト】太田章さん
1057年4月生まれ。秋田県秋田市出身の太田章さん。
秋田商業高校でレスリングを始め、たった2ヶ月で東北大会、インターハイ、国体と優勝を重ね、ブルガリアのJr世界選手権でも3位入賞。
「30年に一度の怪物現る」
と世間を驚かせ、早稲田大学時代は全日本大学選手権3連覇、全日本選手権5連覇と計8回優勝を果たします。
さらに1984年ロサンゼルス五輪で重量級初の銀メダルを獲得。
1988年ソウル五輪 準決勝では、対アメリカ戦1対8の劣勢からの逆転フォール勝ちで日本中に感動を与え、二大会連続で銀メダルを獲得。
その後も1992年バルセロナ五輪代表に選ばれ、1996年アトランタ五輪選考会出場も果たし、唯一4回連続日本代表という偉業を成し遂げ、その記録を未だ破る者はいません。
今回は日本レスリング界で唯一無二の存在である太田さんにこれまでのレスリング人生について、インタビューをさせてもらいました。
――たくさんある種目の中から、なぜレスリングを選んだのですか
子どもの時から体操競技が好きで、すごく身体が柔らかいんです。今でも開脚したら床に胸までべたーって付きますよ。
そして中学生の時は柔道をやっていました。秋田県を制覇して、「県内1位」でしたが、他県には、もっと強い選手がいました。
「日本1位」になるためには柔道ではなくレスリングでオリンピックを目指しました。
父親が柔道ファンだったので、反対を押し切っての転向でした。
でも、元々秋田県はレスリングが強い県なんです。
県内では、ミュンヘンオリンピックのフリースタイル57kg級金メダリスト柳田英明さんがいたり、他にも有名選手を多く輩出しています。
秋田商業高校に入り、レスリング開始から2ヶ月で東北大会に出て、1年生なのに先輩達に負けず、すぐに優勝できちゃいました。
身体が柔らかいおかげで柔軟に技を仕掛けられたんだと思います。
―― 高校時代から、日本ではもう負けを知らない感じだったのでしょうか
優勝して高校選抜に選ばれると、アメリカへ1ヶ月間の旅に行けると聞いていました。
「頑張れば海外に行けるんだ!」
と熱い思いがありました。
結局、最初に行ったのはアメリカではなくブルガリアだったんですけどね。
Jr世界選手権大会で銅メダルを取りました。
人生初の飛行機がモスクワ経由のブルガリアで
「世界は広いんだな」
と高校生ながらに感じたのを覚えています。
もちろんアメリカにも選ばれました。
―― 早稲田大学を選んだのはなぜですか
高校2年の時に五木寛之さんの「青春の門(※)」を読んで、主人公と同じく早稲田大学を志望しました。
そして、秋田から上京してレスリング部の合宿所で暮らし始めます。
当時のレスリング部はコーチも監督も不在で練習相手を探すにも困ってしまうほどでした。
誰もオリンピックという夢の大舞台を目指す人はいなかったです。
合宿所でもお酒やタバコが当たり前で、決して強くなる環境ではなかったんですね。
10数名しかいないので、団体戦でもギリギリの部員数で出場していました。
先輩にも「あきらめちゃダメです」と、後輩の自分から声をかけていました。
自分としては、しっかり練習に臨めば必ずチャンピオンになれると信じていました。
実際、厳しいトレーニングを積み重ね、2年生ではまたJr世界選手権の代表になりラスベガスへ行き、3、4年生には、世界選手権も体験しました。
レスリングはタックルの練習が基本ですが、私は柔道上がりだったのが功奏し、対戦相手の力をうまく利用して背負い投げで技を仕掛けたり、周りとスタイルが違っていたのだと思いますね。
世界選手権メキシコやサンディエゴでも闘い、在学中にモスクワオリンピック代表になりました。
卒業論文をわざと提出せず、留年までして勝ち取った出場でしたが、ボイコットにより出られず悔しかったです。
(※)五木寛之の1969年連載小説。戦後、北九州の炭鉱街で生を受けた主人公・伊吹信介の波乱万丈な人生を壮大に描いた物語。
―― その後、ロス五輪、ソウル五輪と連続で銀メダルは並大抵ではなかったと思います
そうですね、ロサンゼルス五輪では共産圏が参加できなかったので、たとえメダル獲得しても
「東側諸国がいないなら本当のオリンピックではない」
と言われることもあって、その言葉は傷つきました。
ただ、自分の中にも、ソビエトやアメリカなど全ての国が揃った五輪で戦いたいと思う気持ちがあった。
なので、再びソウル五輪で金メダルを目指しました。
やはり「金」がいいんですよね。
その時には早稲田大学の専任講師で講義もしていたのですが、休講することもなく仕事をしながらのオリンピックでした。
ソウル五輪では試合中肋骨を骨折しての決勝戦で、アメリカの選手にフォール勝ちして最後まで戦い抜いたんですね。
何が起きるかわからないのがオリンピックです。
西側、東側どちらの諸国も揃った大会で2大会連続メダルが獲れたことは嬉しかったです。
―― 4回オリンピック出場権を得れた原動力はなんだったと思いますか
もし、1回もメダルを獲っていなければ、続けて出場をしようとならなかったと思います。
1991年には家族を連れてアメリカのオクラホマへ行き、1年間勉強のために強い選手達とトレーニングを積んで練習に励みました。
次の年には、また助教授としてバルセロナ五輪に出場しましたが、すでに35歳になり選手のピークを超えていました。
子供も4人いましたし「親父もう一踏ん張り!」という気持ちがあったんです。
―― 現役時代に辛かった経験を教えてください
辛かった経験といえば、試合前の減量制限です。
当時は100kgある体重を90kgに落としていました。
試合までの2、3週間前から徐々に10kg落としていくのです。
まずは食事制限をしてから脱水を行います。
空腹は耐えられますが、脱水は想像以上に辛いです。
試合の2、3日前から、おじやとか消化の良い食べ物を流し込むようにして、本番にうまく力が出るように調整して出場していました。
―― 試合前はどのようにして過ごされるのですか
試合がある日の前日はレスリングをしません。
少し走ったり、縄跳びをして汗を流したり、音楽を聞くなど自分の思うように過ごしてリラックスします。
そうすると、試合がしたいとウズウズしてくるんですね。
「明日の試合が楽しみだな」、「早く戦いたい!」というポジティブな気持ちになって、当日を迎えることを楽しみにしていました。
最高のパフォーマンスができるようにコンディションを整えることが大切です。
―― レスリングが強くなるために、大切なことは何でしょうか
強くなるには当然トレーニングは欠かせませんし、センスもないといけません。
精神的にも強くないと勝てないので、負けたくないと思う気持ちが大切でしょう。
他にも体力、スタミナ、パワー、持久力、バランス、柔軟性など全て必要になっていきます。
ですが、本来は自分に合っているスポーツをやればいいのです。
日本はもっとアメリカのようにシーズン制スポーツを行えれば良いのにと思います。
子供の頃、色々な競技に触れて自分らしさを発揮できるスポーツを選んで欲しいですね。
―― 今は指導者として心がけていることがありますか
早稲田大学でコーチをやっていたこともありました。
教え子からチャンピオンを作るのはとても難しいです。
今は大学内で社会人用のクラスを作り、中高年を対象にした「社会人のための楽しいレスリング教室」を開催しています。
体力作りの指導で、参加する方はみなさんは、ほぼレスリング初心者ですが、熱心に取り組んでいます。
また、子供中心の教室も開いています。
将来を担っていく彼らにレスリングそのものの楽しさを伝えたいですね。
レスリングは、柔道のように相手の胴着を掴むことはありません。
何も持たない素手の状態で行います。
勝てば誰でも面白いし、勝つための努力を惜しまなくなります。
せっかく参加してもらうのですから、楽しんでもらうことが重要です。
辛い練習はさせないので、興味があればぜひ参加してくださいね。
―― 座右の銘やモットーがあれば教えてください
いつも口にしている言葉は「Never give up!」「keep busy」
時間を大切に、毎日を無駄に過ごさないように常に意識しています。
―― レスリングを始めたい、興味のある人へメッセージ
勝つことも大切ですが、あまりこだわらなくてもいいので楽しく行ってください。
レスリングは駆け引き、コミュニケーションが取れる魅力あるスポーツだと思います。
太田さん、この度はお忙しい中ご協力いただき本当にありがとうございました!
<インタビュー&記事執筆:飯塚 まりな>
ライター・イラストレーター
インタビューを中心に活動中。
Web、フリーペーパー、書籍を執筆。
ほんわかしたイラストを描く。